北の手百刹最終回 法輪山(曹洞宗) 泰宗寺
染井通りをまっすぐ。左手に東京スイミングセンターを見て、染井霊園に入る手前に泰宗寺はある。門こそ道路に面してはいるが瀟酒なマンションに囲まれているため、ひょっとすると通り過ぎてしまうかもしれない。奥まったところにある本堂も、コンクリート造り。姿こそ近代的だが、整然とした様子は禅宗らしい静けさを醸している。
掲示板には十一面間世音菩薩像がデザインされた「大本山永平寺貫首御親修 道元禅師御征忌 報恩法脈会 大本山永平寺東京別院10/27 28 29」というポスターと「永平寺三世徹通禅師七百回 御遠忌 平成20年4月16日~21日」というのが貼ってある。泰宗寺の本山はこの永平寺と鶴見の総持寺は、である。轍通禅師は、金沢の大乗寺なども開いた文字通り永平寺の三代目ご住職である。永平寺では来年に向けてすでにさまざまな準備が進んでいるらしい。
その轍通禅師のポスターに「喜心・老心・大心」とあった。
気になる言葉だったので、じっと解説を眺めてみる。
「喜心」とは、つまり喜悦の心。仏さまとそのみ教え、修行する人を尊び、巡り会えた因縁に感謝し、他人の利益に供する喜びをもって勉めること。これは尊敬と感謝であると思った。
続いて「老心」とは、いつくしみ育てる親切な心。親が子を思い、我が身の寒さや暑さを忘れ、子供の成長を願うような心だという。
最後の「大心」。これは固執(こしゅう)せず、平等で大きな心を示す。大山や大海のように高く広い心を持ち、一方に偏ったり差別することがあってはいけない。
このところ、とりわけ些末な事ばかり気にしていたので、メモをとる手が止まり、ため息が出る。スイミングセンターの駐車場の整理をする人が時折こちらをちらちら見ている。掲示板に顔を近づけて立ち尽くす私は、散歩人には見えなかったかもしれない。
泰宗寺は、慶長10年(1605)の創建。お寺の案内によれば、千葉県の君津にある最勝福寺の末寺で、開基は攝津三田城主九鬼守隆という人である。もとは茅場町(八丁堀)にあって、寛永10年(1633)、幕府の命により下谷稲荷町へ。その後、火災などにも見舞われ、明治41年(1908)今の場所に移ってきた。
坐禅会は毎週土曜日朝8時~9時。火曜日、7時~8時。読経会は毎月行われている。
今回は確認できなかったが、昔の歴史案内書をみると、天愚孔平(てんぐこうへい享保―文化)という蘭学者の墓碑があるようだ。この人は面白い人で、納札中興の祖と呼ばれている。納札つまり千社札である。
江戸の奇人と呼ばれるだけあり、人を喰った衣裳と高慢な態度でもって、市内に知らぬ者なしとまで言われたそうだ。天愚は、天狗なのである。松平出羽守に仕えた松江藩士で、荻野喜内という立派な本名があるにもかかわらず、孔子の子孫であるなどと言い(衣裳は確かに中国の学者風でもある)孔平信敏などと名乗った。
千社札には、単に足跡を示すだけでなくお詣りを重ねていますよという意味合いもあり、そもそも室町時代にも流行している。しかし、継竿を使い、高い所に貼るというのが天愚孔平のアイディアだった。そもそもは松平家で疱瘡が流行り、伊勢の多賀両社と武州の疱瘡神へ疱瘡送りの札を納めるように言われたのが、ヒントになったらしい。
しかし、この人、千社札を貼りはしてもお賽銭をあげることはなかったという。一文銭を棒の先につけた糸からたらし、賽銭箱に入れては引き上げていたというのだからあきれる。しかしそれにも理屈があり、「賽銭はどうせ神主や坊主の豆腐かコンニャクの代金になる。だがそれでは神仏には申し訳ないので、音だけはたてる」とのことだった。とは言え、そんな天愚孔平も、幾つだかでこの世を去り(本人は百歳をゆうに超えていると語っていたようだ)お寺に埋葬されているのだからフシギなものである。
帰り際、もう一度門のところに立って新しくなった本道の方を見やった。ふと足元を見るとコンクリートの道だと思っていた参道に、小さな石で桜の花がかたどられている。単に昔のままであるよりも、なんだかとても心の通ったものを見つけたような気がした。




最終回 法輪山(曹洞宗) 泰宗寺への
携帯版地図(GoogleLocal)
各寺院へはマナーを守ってご訪問下さい。
また、諸行事(冠婚葬祭など)で利用中の寺院の見学はお控えくださるようお願い申し上げます。
