パンと一緒のおいしい時間~四百房のブドウの木~

熱いオーブンを使うワルン・ロティの狭い作業場では、この夏の暑さはひとしお。
そんなある暑い日、いつもの自転車をひっぱった、メガネの紳士が汗をふきふきパンを買いにいらして、「差し入れですよ」と、手提げ袋を渡してくれました。受け取るとズシリと重く、中には白い紙袋をかぶったブドウが一房。さっそく黒々とした大粒の実をプチっとちぎりほおばると、みずみずしい甘さが乾いたノドにしみわたります。
「今朝、獲りたてですよ。この近くの農家でね、ブドウモギをさせてくれるんです」との言葉に、心はウキウキ。さっそく翌朝、訪ねてみました。
自転車で三分。「この辺は目黒の住宅街のド真ん中。畑なんてあったかしら?」と、いただいた地図を片手に半信半疑でウロウロし、見つけた場所にはガッシリとした木の門構え。まるで道場のよう。調子に乗って「たのも~っ」と、声を掛けたとしても、間違いだったらタダではすまされそうにありません。小声で「あの~」と、様子を伺うと、「ブドウあります」と、書いた紙が吊るしてありました。
見事にアーチを描いた松をくぐって敷地に一歩踏み入ると、そこには、子供時代の記憶にもあるかないかのレトロな農家の風景がありました。ぶあつい茅葺きの屋根と崩れかけた土壁の作業小屋。小屋の裏手に四角い畑がひろがって、まん中には葱坊主が鮮やかな緑の列をつくっています。窓を開け放った広い縁側の和風家屋の畳の間には扇風機がひとつ、だれに向けるともなく風を送っています。勝手口の手前にはコンクリートのプール?いえ、野菜の洗い場かしら?そして「ああ!ブドウ棚!」。
一本の木が、十畳間程の広さに枝を張り、白い袋をかぶった房を垂らしています。
畑仕事の手を休めて、手ぬぐいを粋にかぶった奥様が来てくださり、「はいはい、パン屋さんに差し上げるんだって方ねえ、来ましたよ。好きなの選んでってね。黒が濃いのが甘いですよ~」と、カゴとハサミを渡してくれます。
ブドウ棚の下に敷いたビニールシートの上を、そろりそろりと歩きながら首をひねっては袋の中を覗いて、「百房はありますかあ」と訊くと、奥様は「まだ六年の木ですけど、今年は四百はありましたよ。前はピオーネを植えてたんですけど、色が良く出なくてね、藤稔(ふじみのり)に変えたんですよ。ビニールシート?雨よけですよ雨がたくさん降った年にね、そろそろ大きくなったかなあ?と、この白い紙袋をあけてみたら、どの房の粒も割れてしまっていてね、それから土に余計な水が浸みないようにビニールを張ったんですよ」と。育てる人の手入れが四〇〇の房を実らせたのです。
「わが家にもメルローがなっているんです。ワイン用品種ですけれど」と、話すと「ほ~」と、奥様は関心を持ってくださいましたが・・・・・・実はたった十房。同じく六年目にして初めてつけた実です。ワイン用ブドウは、わざと房の数を減らして凝縮したワインを目指すと言いますが、私のはただの野放図。ちょっと恥ずかしくなりました。
大和田 聡子(おおわだ としこ) 東京都生れ
小麦育種家の父の影響で幼少からパンに親しむ。30歳を過ぎて父の開発にかかる岩手産「コユキコムギ」を使って独学でパンを焼きはじめ、2003年5月、目黒区洗足2-8-27の自宅の一角でナチュラルパン工房「ワルン・ロティ」を開く。チーズやワインにも造詣も深く各地で講師を務めるとともに、異色の創業者としてマスコミ等にも多数登場。著書に『自宅でパン屋はじめました』(河出書房新社刊)。
http://www.warungroti.com/
