パンと一緒のおいしい時間その34 ~思い出パン、一つくださいな~

とうとう、新しい年が始まりましたね。昨年は、師走の初めに朝日新聞朝刊の生活面にやや大きめカラー写真付きでワルン・ロティを紹介いただき、おかげさまで、賑やかな暮れとなりましたよ。掲載記事は、題して「のんびり週末店主」。
ネットで何でも買い物ができる時代に、週末だけでも「あえて『店舗』を構え、お客さんとふれあう」営業のスタイルを取り上げてくれたのです。残念ながら「パンがおいしい」という内容ではなかったのですが・・・・・・。
ところが、記事を読んだ方から、意外な問い合わせが飛び込みました。
「昭和二十年代に食べたパンの味が忘れられないのです。あんなパンを焼いていませんか?あの頃のパンは今のパンとはまったく違って、割るとパンの香りがちゃんとして・・・・・・」と。電話口から察するに、七十過ぎぐらいのおじいちゃんでしょうか。
でも、昭和二十年代と言えば、食べる物を手に入れるのに必死だった戦争直後のはず。配給制であった小麦粉はアメリカからの援助物資で、パン、めん類とともに「自由販売」となったのは昭和二十七年からと聞いています。
「残念ながらまだ生まれていなくて、その頃のパンの味はわからないのですが、おそらくアメリカからの粉を使っていたと思います。こちらの岩手産小麦のパンとは味が異なると思うのです。それとも、小麦畑が近くにありましたか?」と、応えると、「私もほんの子供でしたけどね、そう、パン用をメリケン粉って呼んでいたのは覚えてますよ・・・・・・。」と、おじいちゃん。
電話を置いたあと、さて?昭和二十年代のパンっていったいどんなパンだったのでしょう。気になって、父に訊いてみると、やはり小麦粉はアメリカからのものだったろう、との返事。
「三十年代の終わり頃かな。製粉会社の人との話はね、工場でパンを作ることに集中していたよ。パン生地が、次々とベルトコンベアで運ばれるだろう。その間ずっと、パン生地の形が崩れずに次の工程に送られることが最重要だったんだ。形が保ちにくい日本の小麦などでパンを焼くという発想は、あの人たちの頭にはなかったようだった。」
そして、「戦後は、いっとき、膨らまし粉を混ぜたパン生地を木の箱にいれて銅板二枚を箱の両側に立て、通電させて、電気の熱でパンを焼いたものだよ。知っているかな。」とも。
膨らまし粉とは、重曹の事。当時はパン用イーストなど手に入らなかったそうです。電極付木箱のパンはどんな味だったのでしょう?
それを知らない世代の私の記憶に初めて登場するパンは、四角い食パンと、給食のコッペパンですが、もてあますほどにずんぐりと大きかったコッペパンも、実は昭和二十年代生まれのパンのひとつだそうです。
昭和二十五年にアメリカの援助小麦をもとに始まった学校給食用のパンとして誕生したもので、かわいい名前は、当時のパン屋が在日フランス人のために焼いたラグビーボール型の小さなフランスパン「クーペ」が由来とか。つまり純粋な日本生まれのパン。
さて、電話のおじいいちゃんは、どんな思い出パン話をしてくださるでしょうか?
来店を楽しみにしているのです。
大和田 聡子(おおわだ としこ) 東京都生れ
小麦育種家の父の影響で幼少からパンに親しむ。30歳を過ぎて父の開発にかかる岩手産「コユキコムギ」を使って独学でパンを焼きはじめ、2003年5月、目黒区洗足2-8-27の自宅の一角でナチュラルパン工房「ワルン・ロティ」を開く。チーズやワインにも造詣も深く各地で講師を務めるとともに、異色の創業者としてマスコミ等にも多数登場。著書に『自宅でパン屋はじめました』(河出書房新社刊)。
http://www.warungroti.com/
