9800軒へお届け中の北の手情報紙!
トップ > 歴史の後影 > 1 平塚神社

歴史の後影1 平塚神社

源義家の陣屋に到着した弟・義光(後三年合戦絵巻より)
北区上中里1-47-1(JR上中里駅1分)

 古来「平塚三所大明神」として信仰を集めた平塚神社の祀る神は、神格化された八幡太郎源義家、賀茂次郎源義綱、新羅三郎源義光の三命である。
 後三年の役(永保3年/1083‐寛治1年/1087)の凱旋で、豊島氏の居城であった平塚城に立寄った義家が、時の城主・豊島近義の饗応への返礼に下賜した鎧一領を、清浄な地に埋め塚を築き平塚城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を祈願したと伝える。
 その後、江戸時代初頭に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たした。後年家光が病に倒れた際も、山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願したところ、将軍の病はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復し、家光も五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れたという。
 源義家(長暦3年/1039-嘉承元年/1106)は清和源氏頼義流として、のちに義宗、義親、義国、義忠、義時、義隆、為義らの子を経て、鎌倉幕府を開いた源頼朝へ至る源家嫡流をなしたが、その晩年は必ずしも多幸とはいえず、時の朝廷からは、後三年の役があくまでも義家と清原氏との私闘としてしか評価されなかったこと、息子・義親の追討、義家への全国からの荘園寄進の停止や没収など、院や摂関家からの数々の冷遇のうちに、嘉承元年7月(1106年8月)没し、内訌もあって都での河内源氏の権勢は衰退した。
 とはいえ、河内の私財を投じて、後三年の役に参戦した郎党に報いた義家の振舞いは、武門の棟梁として東国を中心に広く国人層に印象づけられ、のちの頼朝による御家人群の形成に大いに寄与した。また明神としての神格化は平氏に比較して一種の貴種信仰を生みだしたと思われる。
 先述のように、鎌倉幕府を開いた源頼朝は義家のひ孫にあたる源義朝の子、また室町幕府を開いた足利尊氏は、義家の三男の源義国の次男の足利義康(源義康)の子孫である。さらに新田義貞は、同じく源義国の長男の新田義重(源義重)の子孫であるなど、のちに歴史の舞台に華々しく登場する源氏諸流の重要な位置を占め、まさに“八幡太郎”の呼名にふさわしい人物といえる。
 平塚神社の宮神輿や高張り提灯に記された「五本骨扇に月丸」(日の丸ではないことに注意)の紋は、佐竹氏の家紋。『吾妻鏡』に、佐竹氏伝来の無紋の白旗を頼朝から咎められ、下賜された五本骨月丸扇を白旗に付けて参戦した逸話が残る。
 ちなみに佐竹氏は、左兵衛尉の官職を投げ打って奥州に馳せ参じ、奮戦する兄・義家を助けた新羅三郎義光の孫・源昌義に始まるという。
(織戸 雅史)

平塚神社拝殿
甲冑塚