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歴史の後影2 豊島郡衙(としまぐんが)

北区西ヶ原2・3丁目一帯(南北線西ヶ原駅)

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 平塚神社から滝野川公園―東京病院―印刷局滝野川工場―七社神社を経て、飛鳥山に至る一帯は、かつての武蔵国豊島郡衙の跡地に比定されている。地形の起伏を勘案すれば、その平坦さから旧古河邸園の敷地も、この古代からの敷地の一部と想像したくなる。事実「南北約62メートル、東西約56メートル(推定)の回廊を持つ官庁の建物と55、000平方メートルの区画に、20棟の正倉建物(=税を納める倉庫)が立ち並んでいた」との『北区埋蔵文化財調査報告書 御殿前遺跡I~III』等の研究成果もある。
 武蔵国は21郡(のち22郡)と、陸奥国に次いで多数の郡で構成されていたが、豊島(豊嶋)郡は、比較的小さな郡であったといわれている。それでも、現在の北・荒川・台東・板橋・練馬・豊島・文京・新宿の各区と、渋谷・港・千代田の各区の一部の地域を含む規模であった。いかに他の郡が大きかったかが想われる。
 古代から馬の産地として、浅草・本所・牛込などに「勅旨牧」と呼ばれる牧場が営まれ、盛んに都へと供給が行われた。恐らく、北関東から東北の馬も一旦肥育のため集められたことであろう。
 古代の武蔵国を、見はるかす秩父や丹沢の峰々に限られ、複雑な流路を形成した荒川・多摩川に洗われた茫漠とした草原とイメージしても、そう外れてはいないのではないか。そうした武蔵国の東端に位置したのが、豊島郡であった。
 いま北区飛鳥山博物館に常設象徴展示されている豊島郡衙は、その付帯施設であった「正倉」である。御殿前遺跡と七社神社前遺跡の発掘調査の成果に基づく推定建築だ。
 飛鳥山博物館の解説によれば、7世紀後半以降、律令国家の地方政庁が置かれた西ヶ原には、「執務を行う正殿などの建物が並ぶ政庁域や、租税を管理する正倉院に関する遺構が次々と見つかり、当時の地方役所の様子が明らかになって」いる。
 西ヶ原の地名は、平塚城(平塚神社)のある上中里(宮谷戸)・中里の西方平坦地の意とされているようだが、先史時代からの地形の変遷――中里貝塚遺跡から証明される古東京湾の湾入、その後の石神井川や荒川・隅田川の氾濫、十島とも、砥島、渡島とも思われる「豊島」の地名など、豊かな水流の洗う一帯の中で、この西ヶ原の台地は一貫して人が住まいし、律令国家の官衙が置かれ、また豊島氏の砦が置かれた。
 荒川を下り、石神井川を遡り、武蔵七党の諸流は、豊富な馬を駆って草原を疾走した。俘囚、防人、都の傭兵の長い時間を経て、やがて関東武者としてその名を全国に轟かすのは、古代末期の動乱期のことであった。
(織戸 雅史)

豊島郡衙の象徴展示(北区飛鳥山博物館)
豊島郡衙の象徴展示(北区飛鳥山博物館)