歴史の後影3 西行庵のこと
北区田端2丁目地先(JR田端駅・駒込駅)

文化年間(1804-1818)、小日向水道端の住職の勤めを譲った隠居が、江戸を中心として遠くは参州、尾州(愛知県)までも足をのばし、興の赴くまま書き記した見聞録がある。『遊歴雑記』という書物だ。平凡社の東洋文庫シリーズに入っているので、気軽に繙けるのはありがたい。
その中の一編に、田畑(端)・東覚寺を西へ二丁、西が原村の辻町へ十一丁のあたりに、西行庵があったことが記されている。
当時は江戸の近郊といった位置の田端であることからか、著者・敬順の視点も筆致も、やや皮肉な調子を帯びているように読める。
此西行庵は、件の東覚寺の持にて、同村(田端村のこと)に久しき孫右衛門とかやいえる爺、宝暦・明和の頃より発起して、此空地に小庵を営み住みて、庭中及び家作を工夫し、兼ねて刻み置きし西行の木像を沼より掘出し、庵室の傍にすえて西行庵となづけしが、近頃此地に逍遥し、しらず顔にたづぬれば、庵主と覚しき道心の者答て、西方山普門寺といふよしを語る。新地の小庵に山号・寺号あるべき様やあらん、信じがたし
この西行庵の庵主はなかなか異才の人であったらしく、捩れた三角の垂木、丸木の檐板(棟木か?)、敷居・鴨居の皮付、篠竹の丸骨障子、丸竹の庇に杉皮の雨戸の類と、いまならさしずめ自然派のロッジのような庵室の設計者だったようだ。さらに庭の笹原に反った長石に瓦をたてて針がねでつないで帆掛け船に見立て、手水鉢を燈篭につかい、白い小徳利を並べて軒の雨受けにするといった意匠を尽くしたデザインぶりだったという。
敬順にはすべてがうさん臭く思われたようで、「悉くいやみを尽くし、そげたる(興醒めな)作意のみ」と切って捨てている。余憤さめやらぬ敬順は、休み処として供される煎茶にまで「粗悪にして喫すべからず」と悪態をついている。
長年秩序維持的な仏門にあった敬順にとって、僻村の野放図ともいえる異風は決して受入れられるものではなかった。だが、この婆裟羅的な趣味の庵主と敬順と、どちらが西行の精神に近かったか、ほんとうはだれにも分からない。著者・敬順に異質なものを計る視点が無いからである。
化政期は文化の爛熟と退廃の時代といわれてきたが、一方でロシア使節のニコライ・レザノフが通商を求めて長崎へ来航、次いでイギリス船が通商国・オランダ船籍と偽って長崎へ入港し水や食料を脅し取ったフェートン号事件の勃発など、ようやく太平の夢がほころびを見せ始めた時代でもあった。
ちなみに、先の西行庵には、現在谷中七福神の筆頭・東覚寺のように福禄寿がまつられ、その厨子に関する記述が見られる。同じものではないにしても、面白い一致ではある。

西行と富士

東覚寺前の土地区画整理事業
