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歴史の後影4 江戸城址を訪ねて

千代田区千代田1(東西線・竹橋下車)

いまに残る江戸城天守台(皇居東御苑)
 本紙特集にちなんで、北の手エリアを離れ江戸城址を訪ねてみた。
 江戸城は「江戸総構え」といわれたように、千代田の地から時計回りに、浜御殿・御成門・虎ノ門・溜池・山王権現・四谷門・市ヶ谷門・牛込門・小石川門・水道橋・万世橋・浅草橋・両国橋・大橋・永代橋を外郭とする軍事都市江戸の中心に位置した。

 豊臣秀吉の命によって、徳川家康が旧領から関東に移封されたとき、江戸城はまだ太田道灌建設当時の質素なものだったという。「天下普請」といわれた大規模土木工事によって、江戸の市街が整備されたのはおおむね家康の孫である徳川家光の時代(1636年頃)のこと。なお鈴木理生(まさお)氏による家康入府前の江戸に関する研究は、中世江戸の歴史を偲ぶ刺激的な考察に満ちている。

 江戸城天守は慶長度(1607年)・元和度(1623年)・寛永度(1638年)と三度築かれたが、1657年の明暦の大火で焼失し、以後再建されることはなかった。焼失後ただちに再建が計画され、天守台まで築かれたが、江戸市街復興が優先された事情により、ついに再建されることはなかったという。実質的な天守は本丸・富士見櫓とされた。

 江戸城天守閣の規模は、復元図からの推定で、石垣上44.5メートルもの高さをもつ巨大なもので、豊臣大坂城28.5メートル、名古屋城36メートル、安土城33メートル、姫路城31メートルを遥かに凌ぐものであったという。

 日本建築を学ぶ建築学科の学究がスタディとして描いた復元図では、慶長度、元和度、寛永度それぞれの復元図が描かれているが、家康時代(慶長度)の天守は二代将軍秀忠によって解体・再建された。大坂城移築や仙台移築などともいわれているが確定していない。さらに秀忠時代(元和度)の天守も、秀忠没後三代家光によって解体され再建されている。いずれもその動機・目的が不明とされ、ミステリアスな想像を誘っている。

 訪れた皇居東御苑は旧本丸・二の丸・三の丸のあった領域で、広大な敷地に多くの人が訪れていた。梅林坂あたりに、太田道灌や万里集九の面影を追ってみるのも一興であると思われた。
(織戸雅史)

富士見櫓
梅林坂へ至る道
寛永度江戸城天守復元図
寛永度江戸城天守復元図