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      <title>歴史の後影</title>
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      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>5　鼓翼平和観音像</title>
         <description><![CDATA[北区田端2-7-3（東覚寺境内）

<img alt="東覚寺" src="http://www.kirinkun.com/history/images/0803_history_01.jpg" width="113" height="200" align="right" />　昭和20年（1945）3月10日の東京大空襲は、死者10万名、負傷者10万名、焼失家屋27万戸を数える未曾有の被災となった。
　アメリカ合衆国の戦略爆撃は、紙と木でできた日本の都市を、焼夷弾を使った超低空爆撃で文字通り焼き払う戦術に出た。死傷者の多くは焼死・窒息死また川に飛び込んだことによる水死・凍死とされている。
　耐火建築に避難した人々も、あまりに火災規模が大きかったため起きた火災旋風による火災に見舞われた。この火災旋風のすさまじさは、後続の爆撃隊がB29の操縦を困難にし、予定地以外の例えば荒川方面に焼夷弾投下を余儀なくさせたほどだったいう。

　アメリカ軍は効率良く東京を焼き払うため、中心部からその周縁を囲むように、矢継ぎ早に空襲を行ったが、その一つが同年4月13日の城北大空襲と呼ばれるもので、豊島から深川にかけて死者2459名、焼失家屋20万戸とされている。

　いま田端・東覚寺に建つ「鼓翼平和観音像（薬師寺型）は、こうした総力戦下の学童疎開を偲ばせる記念像だ。説明板によれば、滝野川第一小学校（国民学校）の四万温泉（群馬県）に集団疎開した児童に思いを込めたものだという。俳優・児玉清氏もこうした児童たちの一人であったことが記されている。

　歴史の記録としては、数万・数十万の「大量死」として表現される人間ではあるが、＜死＞は一人ひとりにしかやってこない切実なものである。そうしてこれは決して一般的な＜体験＞たりえないがゆえに、つねに生者によって語り継がれねばならないのだ。

（織戸　雅史）

<div id="photo">
<div class="photo-box"><img alt="東覚寺" src="http://www.kirinkun.com/history/images/0803_history_02.jpg" width="284" height="160" />
</div>
<div class="photo-box"><img alt="鼓翼平和観音像" src="http://www.kirinkun.com/history/images/0803_history_03.jpg" width="90" height="160" />
</div>
<div class="photo-box"><img alt="寄進板" src="http://www.kirinkun.com/history/images/0803_history_04.jpg" width="284" height="160" />
</div>
</div>]]></description>
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         <pubDate>Fri, 28 Mar 2008 13:02:09 +0900</pubDate>
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         <title>4 江戸城址を訪ねて</title>
         <description><![CDATA[千代田区千代田1（東西線・竹橋下車）

<img alt="いまに残る江戸城天守台（皇居東御苑）" src="http://www.kirinkun.com/history/images/0805_history_01.jpg" width="300" height="200" align="right" />
　<a href="http://www.kirinkun.com/monthly/2008/02/post_15.html">本紙特集</a>にちなんで、北の手エリアを離れ江戸城址を訪ねてみた。
　江戸城は「江戸総構え」といわれたように、千代田の地から時計回りに、浜御殿・御成門・虎ノ門・溜池・山王権現・四谷門・市ヶ谷門・牛込門・小石川門・水道橋・万世橋・浅草橋・両国橋・大橋・永代橋を外郭とする軍事都市江戸の中心に位置した。

　豊臣秀吉の命によって、徳川家康が旧領から関東に移封されたとき、江戸城はまだ太田道灌建設当時の質素なものだったという。「天下普請」といわれた大規模土木工事によって、江戸の市街が整備されたのはおおむね家康の孫である徳川家光の時代（1636年頃）のこと。なお鈴木理生（まさお）氏による家康入府前の江戸に関する研究は、中世江戸の歴史を偲ぶ刺激的な考察に満ちている。

　江戸城天守は慶長度（1607年）・元和度（1623年）・寛永度（1638年）と三度築かれたが、1657年の明暦の大火で焼失し、以後再建されることはなかった。焼失後ただちに再建が計画され、天守台まで築かれたが、江戸市街復興が優先された事情により、ついに再建されることはなかったという。実質的な天守は本丸・富士見櫓とされた。

　江戸城天守閣の規模は、復元図からの推定で、石垣上44.5メートルもの高さをもつ巨大なもので、豊臣大坂城28.5メートル、名古屋城36メートル、安土城33メートル、姫路城31メートルを遥かに凌ぐものであったという。

　日本建築を学ぶ建築学科の学究がスタディとして描いた復元図では、慶長度、元和度、寛永度それぞれの復元図が描かれているが、家康時代（慶長度）の天守は二代将軍秀忠によって解体・再建された。大坂城移築や仙台移築などともいわれているが確定していない。さらに秀忠時代（元和度）の天守も、秀忠没後三代家光によって解体され再建されている。いずれもその動機・目的が不明とされ、ミステリアスな想像を誘っている。

　訪れた皇居東御苑は旧本丸・二の丸・三の丸のあった領域で、広大な敷地に多くの人が訪れていた。梅林坂あたりに、太田道灌や万里集九の面影を追ってみるのも一興であると思われた。
（織戸雅史）

<div id="photo">
<div class="photo-box"><img alt="富士見櫓" src="http://www.kirinkun.com/history/images/0805_history_02.jpg" width="144" height="160" />
</div>
<div class="photo-box"><img alt="梅林坂へ至る道" src="http://www.kirinkun.com/history/images/0805_history_03.jpg" width="241" height="160" />
</div>
<div class="photo-box"><img alt="寛永度江戸城天守復元図" src="http://www.kirinkun.com/history/images/0805_history_04.jpg" width="200" height="160" />
</div>
<div class="photo-box"><img alt="寛永度江戸城天守復元図" src="http://www.kirinkun.com/history/images/0805_history_05.jpg" width="200" height="160" />
</div>

</div>]]></description>
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         <pubDate>Wed, 27 Feb 2008 14:33:53 +0900</pubDate>
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         <title>3　西行庵のこと</title>
         <description><![CDATA[北区田端2丁目地先（JR田端駅・駒込駅）

<img alt="-" src="http://www.kirinkun.com/history/images/0710_history_01.jpg" width="300" height="199" align="right" />
　文化年間（1804-1818）、小日向水道端の住職の勤めを譲った隠居が、江戸を中心として遠くは参州、尾州（愛知県）までも足をのばし、興の赴くまま書き記した見聞録がある。『遊歴雑記』という書物だ。平凡社の東洋文庫シリーズに入っているので、気軽に繙けるのはありがたい。
　その中の一編に、田畑（端）・東覚寺を西へ二丁、西が原村の辻町へ十一丁のあたりに、西行庵があったことが記されている。
　当時は江戸の近郊といった位置の田端であることからか、著者・敬順の視点も筆致も、やや皮肉な調子を帯びているように読める。

　此西行庵は、件の東覚寺の持にて、同村（田端村のこと）に久しき孫右衛門とかやいえる爺、宝暦・明和の頃より発起して、此空地に小庵を営み住みて、庭中及び家作を工夫し、兼ねて刻み置きし西行の木像を沼より掘出し、庵室の傍にすえて西行庵となづけしが、近頃此地に逍遥し、しらず顔にたづぬれば、庵主と覚しき道心の者答て、西方山普門寺といふよしを語る。新地の小庵に山号・寺号あるべき様やあらん、信じがたし

　この西行庵の庵主はなかなか異才の人であったらしく、捩れた三角の垂木、丸木の檐板（棟木か？）、敷居・鴨居の皮付、篠竹の丸骨障子、丸竹の庇に杉皮の雨戸の類と、いまならさしずめ自然派のロッジのような庵室の設計者だったようだ。さらに庭の笹原に反った長石に瓦をたてて針がねでつないで帆掛け船に見立て、手水鉢を燈篭につかい、白い小徳利を並べて軒の雨受けにするといった意匠を尽くしたデザインぶりだったという。
　敬順にはすべてがうさん臭く思われたようで、「悉くいやみを尽くし、そげたる（興醒めな）作意のみ」と切って捨てている。余憤さめやらぬ敬順は、休み処として供される煎茶にまで「粗悪にして喫すべからず」と悪態をついている。
　長年秩序維持的な仏門にあった敬順にとって、僻村の野放図ともいえる異風は決して受入れられるものではなかった。だが、この婆裟羅的な趣味の庵主と敬順と、どちらが西行の精神に近かったか、ほんとうはだれにも分からない。著者・敬順に異質なものを計る視点が無いからである。
　化政期は文化の爛熟と退廃の時代といわれてきたが、一方でロシア使節のニコライ・レザノフが通商を求めて長崎へ来航、次いでイギリス船が通商国・オランダ船籍と偽って長崎へ入港し水や食料を脅し取ったフェートン号事件の勃発など、ようやく太平の夢がほころびを見せ始めた時代でもあった。
　ちなみに、先の西行庵には、現在谷中七福神の筆頭・東覚寺のように福禄寿がまつられ、その厨子に関する記述が見られる。同じものではないにしても、面白い一致ではある。
<div id="photo"><div class="photo-box"><img alt="西行と富士" src="http://www.kirinkun.com/history/images/0710_history_02.jpg" width="200" height="160" /><br />
西行と富士
</div><div class="photo-box"><img alt="東覚寺前の土地区画整理事業" src="http://www.kirinkun.com/history/images/0710_history_03.jpg" width="106" height="160" /><br />
東覚寺前の土地区画整理事業
</div>
</div>]]></description>
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         <pubDate>Mon, 29 Oct 2007 16:14:39 +0900</pubDate>
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         <title>2　豊島郡衙（としまぐんが）</title>
         <description><![CDATA[北区西ヶ原2・3丁目一帯（南北線西ヶ原駅）

<img alt="-" src="http://210.150.85.58/history/images/0709_history_01.jpg" width="200" height="300" align="right" />
　平塚神社から滝野川公園―東京病院―印刷局滝野川工場―七社神社を経て、飛鳥山に至る一帯は、かつての武蔵国豊島郡衙の跡地に比定されている。地形の起伏を勘案すれば、その平坦さから旧古河邸園の敷地も、この古代からの敷地の一部と想像したくなる。事実「南北約62メートル、東西約56メートル（推定）の回廊を持つ官庁の建物と55、000平方メートルの区画に、20棟の正倉建物（＝税を納める倉庫）が立ち並んでいた」との『北区埋蔵文化財調査報告書　御殿前遺跡I～III』等の研究成果もある。
　武蔵国は21郡（のち22郡）と、陸奥国に次いで多数の郡で構成されていたが、豊島（豊嶋）郡は、比較的小さな郡であったといわれている。それでも、現在の北・荒川・台東・板橋・練馬・豊島・文京・新宿の各区と、渋谷・港・千代田の各区の一部の地域を含む規模であった。いかに他の郡が大きかったかが想われる。
　古代から馬の産地として、浅草・本所・牛込などに「勅旨牧」と呼ばれる牧場が営まれ、盛んに都へと供給が行われた。恐らく、北関東から東北の馬も一旦肥育のため集められたことであろう。
　古代の武蔵国を、見はるかす秩父や丹沢の峰々に限られ、複雑な流路を形成した荒川・多摩川に洗われた茫漠とした草原とイメージしても、そう外れてはいないのではないか。そうした武蔵国の東端に位置したのが、豊島郡であった。
　いま北区飛鳥山博物館に常設象徴展示されている豊島郡衙は、その付帯施設であった「正倉」である。御殿前遺跡と七社神社前遺跡の発掘調査の成果に基づく推定建築だ。
　飛鳥山博物館の解説によれば、7世紀後半以降、律令国家の地方政庁が置かれた西ヶ原には、「執務を行う正殿などの建物が並ぶ政庁域や、租税を管理する正倉院に関する遺構が次々と見つかり、当時の地方役所の様子が明らかになって」いる。
　西ヶ原の地名は、平塚城（平塚神社）のある上中里（宮谷戸）・中里の西方平坦地の意とされているようだが、先史時代からの地形の変遷――中里貝塚遺跡から証明される古東京湾の湾入、その後の石神井川や荒川・隅田川の氾濫、十島とも、砥島、渡島とも思われる「豊島」の地名など、豊かな水流の洗う一帯の中で、この西ヶ原の台地は一貫して人が住まいし、律令国家の官衙が置かれ、また豊島氏の砦が置かれた。
　荒川を下り、石神井川を遡り、武蔵七党の諸流は、豊富な馬を駆って草原を疾走した。俘囚、防人、都の傭兵の長い時間を経て、やがて関東武者としてその名を全国に轟かすのは、古代末期の動乱期のことであった。
（織戸　雅史）
<div id="photo"><div class="photo-box"><img alt="豊島郡衙の象徴展示（北区飛鳥山博物館）" src="http://210.150.85.58/history/images/0709_history_02.jpg" width="200" height="135" /><br />豊島郡衙の象徴展示（北区飛鳥山博物館）
</div>
</div>]]></description>
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         <pubDate>Sat, 29 Sep 2007 15:49:57 +0900</pubDate>
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         <title>1　平塚神社</title>
         <description><![CDATA[<img alt="源義家の陣屋に到着した弟・義光（後三年合戦絵巻より）" src="http://www.kirinkun.com/history/images/0708_history_01.jpg" width="300" height="200"  align="right" />
北区上中里1-47-1（JR上中里駅1分）

　古来「平塚三所大明神」として信仰を集めた平塚神社の祀る神は、神格化された八幡太郎源義家、賀茂次郎源義綱、新羅三郎源義光の三命である。
　後三年の役（永保3年／1083‐寛治1年／1087）の凱旋で、豊島氏の居城であった平塚城に立寄った義家が、時の城主・豊島近義の饗応への返礼に下賜した鎧一領を、清浄な地に埋め塚を築き平塚城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を祈願したと伝える。
　その後、江戸時代初頭に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たした。後年家光が病に倒れた際も、山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願したところ、将軍の病はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復し、家光も五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れたという。
　源義家（長暦3年／1039-嘉承元年／1106）は清和源氏頼義流として、のちに義宗、義親、義国、義忠、義時、義隆、為義らの子を経て、鎌倉幕府を開いた源頼朝へ至る源家嫡流をなしたが、その晩年は必ずしも多幸とはいえず、時の朝廷からは、後三年の役があくまでも義家と清原氏との私闘としてしか評価されなかったこと、息子・義親の追討、義家への全国からの荘園寄進の停止や没収など、院や摂関家からの数々の冷遇のうちに、嘉承元年7月（1106年8月）没し、内訌もあって都での河内源氏の権勢は衰退した。
　とはいえ、河内の私財を投じて、後三年の役に参戦した郎党に報いた義家の振舞いは、武門の棟梁として東国を中心に広く国人層に印象づけられ、のちの頼朝による御家人群の形成に大いに寄与した。また明神としての神格化は平氏に比較して一種の貴種信仰を生みだしたと思われる。
　先述のように、鎌倉幕府を開いた源頼朝は義家のひ孫にあたる源義朝の子、また室町幕府を開いた足利尊氏は、義家の三男の源義国の次男の足利義康（源義康）の子孫である。さらに新田義貞は、同じく源義国の長男の新田義重（源義重）の子孫であるなど、のちに歴史の舞台に華々しく登場する源氏諸流の重要な位置を占め、まさに“八幡太郎”の呼名にふさわしい人物といえる。
　平塚神社の宮神輿や高張り提灯に記された「五本骨扇に月丸」（日の丸ではないことに注意）の紋は、佐竹氏の家紋。『吾妻鏡』に、佐竹氏伝来の無紋の白旗を頼朝から咎められ、下賜された五本骨月丸扇を白旗に付けて参戦した逸話が残る。
　ちなみに佐竹氏は、左兵衛尉の官職を投げ打って奥州に馳せ参じ、奮戦する兄・義家を助けた新羅三郎義光の孫・源昌義に始まるという。
（織戸　雅史）
<div id="photo"><div class="photo-box"><img alt="平塚神社拝殿" src="http://www.kirinkun.com/history/images/0708_history_02.jpg" width="200" height="150" />
</div><div class="photo-box"><img alt="甲冑塚" src="http://www.kirinkun.com/history/images/0708_history_03.jpg" width="200" height="300"  />
</div>
</div>]]></description>
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         <pubDate>Wed, 29 Aug 2007 15:17:16 +0900</pubDate>
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