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考古学事始め

弥生文化発見の地、駒込 先史時代の学術エポックは当地で生まれた

NPO法人としま遺跡調査会 宮川和也

駒込一丁目遺跡の弥生集落

駒込一丁目遺跡は、文京区まで広がっている。文京区での名称は上富士前町遺跡。地図の●は、竪穴住居がこれまでに発見された地点
 北区西ヶ原から中里・田端、そして荒川区西日暮里(道灌山)にかけての地域は、実に多くの弥生時代の遺跡が眠っている。これまで明らかになってきたところでは、まず弥生時代中期後半(約2000年前)に道灌山、飛鳥山といった台地の高台に、集落を溝で囲った「環濠集落」が築かれ、弥生時代の人々がこの地に根をおろした。やがて後期後半からその終末ごろ、「邪馬台国」・「卑弥呼」といった名前が登場する時代になると、その周辺に数多くの集落があらわれ、今回ご紹介する駒込地域にも大規模な集落が営まれるようになる。
 ビルや住宅がところ狭しと立ち並ぶ現在の姿からは想像もできないことだが、私たちの足もとには、こうした過去の歴史が埋もれている。この地域の一帯には、弥生時代に限らず、これより古い縄文時代、そのほか古墳・奈良・平安時代から、果ては江戸時代にいたるまで、あらゆる時代の遺跡が残されている。つまりは、今の私たちの営みも、こうした先人たちの営みの延長にあることを実感させられる。
 さて、これらの遺跡は、各自治体の教育委員会が主体となってその保護や調査に努めている。豊島区では、NPO法人としま遺跡調査会が豊島区教育委員会に協力して、区内の遺跡調査にあたっている。その中で「駒込一丁目遺跡」は、弥生後期の遺跡がしばしば発見される区内有数の遺跡で、場所は六義園から本郷通りを挟んだ東側、ちょうど豊島区と文京区の区界にまたがって広がる遺跡だ。
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駒込一丁目遺跡で出土した弥生土器

 これまでに20軒を超える竪穴住居が発見されているが、これはまだ遺跡全体の、ほんの一部分にすぎない。発見される竪穴住居は、いくつか例外もあるが、多くは角の丸い「隅丸方形(すみまるほうけい)」または「隅丸長方形」と呼ばれる形をしており、都内の弥生遺跡ではごく一般的なものだ。大きさは一辺5メートル前後、面積は畳にして10畳ほどの広さをもつ。住居の床には通常、屋根をささえる4本の柱あとや、火を焚く炉が一つある。中には、火災によって焼け落ちた屋根や柱材が、炭化して発見された住居もあった。
 竪穴住居からは、弥生土器などの遺物が出土する。弥生土器には煮炊きに用いる「甕(かめ)」、食料などの貯蔵に使われる壺、鉢、まつりなどに使われたと考えられる「高坏(たかつき)」といった種類がある。これらは破片で発見されることが多いけれども、ときに数個の土器がさほど壊れずに、完全な形で発見されることがある。これは、どうも竪穴住居が埋まる(使われなくなる)直前に、その住人によって置き去りにされたもののようだ。もしかすると、彼らが引越しの際に、それまでの住まいに感謝の意を込めて、まつりの宴を開いていたのかもしれない。皆さんはどう考えるだろうか。

弥生土器の発見から「弥生文化の発見」へ

 「弥生土器」の名が、最初の発見地である文京区「弥生町」にちなんで付けられたのは有名な話だ。1884(明治17)年にこの土器が発見されたことをもって、弥生文化研究の始まり、と言われている。それはある意味で事実だが、実態は少々違っていた。これを学会に発表した「坪井正五郎(つぼいしょうごろう)」も、当初は縄文土器の一種と考えていたようで、弥生土器という言葉はいっさい使っていない。当時は、まだ資料が少ないせいもあってか、弥生文化の解明に挑もうとする研究者がなかなか現れなかった。発見からしばらく、その研究は学会で放置されていたに等しかった。
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発掘前の竪穴住居。角のまるい長方形の竪穴がぼんやりと見える
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発掘された竪穴住居。火災で焼け落ちた屋根材が床に散乱している
 転機が訪れたのは、それから12年後の1896(明治29)年のことである。今の豊島区駒込一丁目に住んでいた「蒔田鎗次郎(まいた そうじろう)」が、自宅の庭で偶然に弥生土器を発見したことが、そのきっかけとなった。これは同時に、駒込一丁目遺跡の発見でもある。
 鎗次郎はただちに自宅の庭を発掘調査し、スケッチにあるような弥生土器を次々発見した。驚くべきは、彼の発掘調査に対する高い意識だ。彼は遺跡の地層の様子や、弥生土器の出土位置、発見されたときの状態などを一つ一つ記録していた。そうした記録は、警察の鑑識が現場検証で行うのと同じく、遺跡に残された「モノ」の背後にある、人の行動や意識を探る重要な手がかりとなる。この当時はまだ「お宝さがし」よろしく、珍品を求めてただ掘り進んでいくような発掘が主流であったから、彼の発掘手法がいかに優れていたかが分かる。
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現在のコンクリート基礎の下に、竪穴住居がしぶとく生き残っていた。都内の遺跡でしばしば見られる光景
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弥生土器が竪穴住居の床で発見された状態
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文京区弥生町で初めて発見された弥生土器
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日本考古学(人類学)の開拓者、坪井正五郎。東京帝国大学に人類学教室を開き、この分野の発展に尽力した。
 まもなく鎗次郎は、この発掘成果を「弥生式時発見について」という論文にまとめて学会に発表した。それは大きな反響をよび、これまで学会で放置されてきた弥生文化の研究が、一躍注目を浴びるきっかけとなった。その後も、彼はこの研究に専念し、今も弥生文化研究の基礎を築いた人物として高く評価されている。
 かつて、弥生町で発見された一個の壺に過ぎなかった弥生土器は、やがて蒔田鎗次郎による駒込での再発見を経て、ようやく「弥生文化」へと昇華したのである。
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明治時代の考古学者、蒔田鎗次郎。駒込に居を構え、弥生文化研究の基礎を築いた
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蒔田鎗次郎が自宅の庭で発見した弥生土器